「坊や、自分で作るのかい?」 「ええ」 少年は、やや得意げな気持ちをおさえながらシャイな口調 で応える。彼が膝の上に大事そうに乗せているのは、アルミ 製のシャーシである。新聞紙で半分くるまれているが、それ とすぐわかる。当時、ラジオはすべてシャーシと呼ばれる箱 に真空管やトランスの穴を開け、部品を半田付けして組み立 てた。少年は、秋葉原のラジオマーケットで買い物をして、 渋谷へ向かう山手線に乗ったところであった。 それから、四○数年がたとうとしているいま、わたしは、 依然として秋葉原通いをしている。秋葉原が好きで好きでた まらない、というわけではなく、「もう二度と来るものか」 と思ったこともあったが、気づいてみると、ごく自然に足が 向いてしまう街として秋葉原があるというようになってしま った。秋葉原の方も時代とともに変貌し、その変化がわたし 自身の変化とうまくあってしまったということもあるかもし れない。 初めて秋葉原に行ったのは、一九五○年ごろだったと思う。 いまラジオデパートとラジオストアがある中央通りの路上に は、露天が何軒も立ち並び、人がごったがえしていた。わた しを連れて行ったのは、両親の仕事を手伝っていたIさんだ ったが、彼が、「勉強してよ」と言ったのが奇妙に印象深か った。 「何の勉強するの?」 勉強という言葉に学習という意味しかないと思っていたわ たしがたずねた。Iさんは苦笑いしながら、それが、「まけ る」ということだ教えてくれた。 よく思い出せないのだが、このとき秋葉原に来たのは、母 のさしがねだったような気がする。彼女は、エクセントリッ クな人で、あるとき「こうだ」と思うと、それがいささか常 識に反していてもすぐ実行しようとする。その当時彼女は、 わたしが子供時代に古いラジオを解体し、部品のいくつかを なくしてしまったのを、「これはよくないことだ」と確信し たにちがいない。そして、「もの心のついたいま、もとに戻 すべきだ」というわけで、Iさんに頼んでわたしを秋葉原に 行かせたのである。 ぼんやりした記憶をたどると、わたしたちが探しに行った のは、ダイアルのところに付いていたツマミだったように思 う。いまほどものが多くない時代とはいえ、同じものを見つ けるのは至難の業だ。だから、Iさんは、わたしを引き連れ てラジオの部品屋をさんざん歩き回ったすえ、秋葉原の露天 にたどり着き、問題の品(それに近いもの?)を発見したの だろう。 当時、ラジオ部品を売る店は、秋葉原よりも神田駅から万 世橋にかけての一帯に集中しており、秋葉原は、むしろ新興 のラジオ街だった。だから、ラジオ部品を買いに行くときは、 いまのJRあるいは地下鉄銀座線の神田駅で降り、そこから 秋葉原まで店を物色して歩くというのが定石だった。五○年 代には、「神田の電気街」という言葉が生きており、秋葉原 よりも須田町が電気/ラジオ部品の中心であった。 壊した古ラジオを復元させられたことがきっかけになった のかどうかはよくおぼえていないが、そのころから半田ゴテ を握るようになった。例の Iさんといしょに須田町 通いを始めたが、そのたびごとに、彼が、店の人の言う値の 半分近くまでまけさせてしまうのに舌を巻いた。わたしは、 これを自分でも実践してみたくてたまらなかったが、二○歳 をすぎ、自分で「まけてよ」と言える度胸が出来たころには、 定価販売制が次第に定着し、パフォーマティヴに買値を決め るやりとりをエンジョイすることはできなかった。おもしろ いのは、その後、海外の街をさまようようになり、そこでも のを買うとき、何のためらいもなくこのパフォーマンスを実 践できる環境に出会い、昔の須田町や秋葉原を思い出したこ とだった。 秋葉原に一人で通うようになったある日、ガード下のラジ オデパートが大火事に遭った。新聞でそのことを知り、野次 馬根性も手伝って現場に出かけたわたしが発見したのは、見 るも無残に焼け焦げ、天井から水がしたたる「通路」だった。 当時、近所の仲間たちとハムの海賊放送をやっていたわたし は、しばしば米軍「放出」の送信管や変調トランスを買いに 行ったが、そういう店も火事のために休業になってしまった。 そこで、わたしの足は、ふたたび万世橋のガード下のマーケ ット(これはいまでも形だけは残っている)にもどった。 都市の大火事は、しばしば、その街の方向を変えるものだ が、秋葉原の場合も、ラジオセンターの火事は、ラジオ街が 闇市的な要素から決別するきっかけとなったように思う。折 しも、日本経済は高度成長に向かって進もうとしており、生 活物資の消費も次第に上向きはじめていた。 秋葉原の遊歩者の目にも、そのことは漠然と感じられた。 米軍の放出品を並べたジャンク屋が少なくなり、完成品を売 る店が出始めた。また、真空管に代わってトランジスタが使 われるようになり、ラジオや無線装置の組み立て方法も変わ ってきた。当時非常に高価だったトランジスタは、いまでは たったの一○円ぐらいしかしないが、出始めのトランジスタ は、高い上に熱に弱く、取り付けには細心の注意と高度な技 術が必要だった。そのため、電子装置の組み立ては、アマチ ュアには手の出ないものになっていったのである。これは、 それから十数年して、安くて丈夫なトランジスタやICが登 場するまで続く。 六○年代後半になってわたしが秋葉原に距離を置くように なったのは、このことと無関係ではない。実際、この時期に なると、部品よりも完成品、専門製品よりも家電製品を売る 店が増え、秋葉原の雰囲気が変わってきた。廣瀬無線が部品 の専門店からオールラウンドの電気デパートに様変りし、第 一家電や石丸電気が秋葉原の顔になる時代が始まったのであ る。 七○年代後半から八○年代の初めまで、わたしは、その多 くの日々をニューヨークで過ごしたので、この時代の秋葉原 のことはよく知らない。が、家電志向がますます強まり、従 来以上に一般の人々が秋葉原に行くようになった時代である ことだけは確かだろう。まだ、家電を安売りする店があちこ ちに現われる前だったから、テレビや冷蔵庫を安く買うため には秋葉原が一番だったのである。 八○年代に入って、わたしは、ひょんなことから微弱電波 を使ったミニFMのブームの仕掛人の一人になってしまった。 ワイヤレスマイクに毛のはえた程度の送信機を使うとはいえ、 出来合いの送信機では、四、五○○メートルの合法エリアを カバーすることは難しかった。そこで、自作をしなければな らなくなり、しばらくごぶさたしていた秋葉原通いがはじま ることになった。頼まれてアンテナ(FM受信用のものを流 用する)を買いにいったことも数しれない。 再会した秋葉原は、斜めに眺めていた七○年代の秋葉原と も違っていた。目立ち始めたのは、コンピュータを扱う店が 急に増えてきたことだ。また、使いようによっては、かなり のことが出来るICやハイブリッドモジュールを数百円の値 段で量販している新タイプのジャンク屋が登場していた。そ うした製品は、モデルチェンジやオーバーストックで、メー カーが投げ売りしたもので、なかには、「本品は、ココム協 定で共産圏への持ち出しが禁止されています」といった但し 書きがしてあるものもあった。これは、ベルリンの壁崩壊と ともに姿を消すことになる。 そんな製品を扱う店(たとえば秋月電子)を覗くうちに、 わたしは、そうしたICやハイブリッドモジュールを使って ある種のハイテクアートを制作することを考えついた。往年 のラジオ工作とその後の文化的関心(?)が一つに結びつい たのである。これは、いまも続くどころか、ますます昂進し、 その制作プロセスを「レクチャーパフォーマンス」と称して 披露するようになった。こうなると、秋葉原は材料やアイデ アの物色に不可欠の場所にならざるをえない。 秋葉原の街は、たえず中心を移動させながら変貌をとげて きたが、八○年代から九○年代にかけて、その中心は、中央 通りを越えた外神田一丁目の一帯に移った。その目玉商品は、 コンピュータであり、ソフマップとザ・コンピュータ館がそ の中心的なスポットになった。 コンピュータの店は、部品店と家電の店との中間に位置し ている。いまでは新宿や渋谷の、家電製品を扱う店でもコン ピュータを売っているとはいえ、自分のマシーンに合ったハ ードディスクやメモリーのような「部品」を安く買おうとす ると、秋葉原のコンピュータ店に行かなければならないし、 専門知識を持った店員も多いように思う。 ところで、七~八○年代の秋葉原には、パンチパーマの店 員が結構いて、わたしもちょっぴり怖い思いをしたことがあ る。テープレコーダを買おうとして、ある製品を見せてもら い、いまいち買う気になれなかったので、「カタログありま すか?」ときいた。すると、そのおにいさんは、「現物があ るんだから、そんなもの見るこたぁねぇだろう!」とすごん だ。こういう店員は、いまのコンピュータ店では存在不可能 である。逆に、製品のことは恐ろしく詳しくて、いくらでも 説明してくれるが、はたしてこの人、売る気があるのだろう か、という疑問をいだかせるようなオタク店員がいるのも、 九○年代に出てきた新しい秋葉原の表情の一つだろう。 わたしがコンピュータを使いはじめたのは一九八○年代の 中頃からだが、九○年代になると、先述のレクチャーパフォ ーマンスとあいまって、ますますコンピュータの病が膏盲に 入るに至った。ミニFMとの関わりもまだ続いている。いま や、部品屋もジャンク屋もコンピュータ店も、すべての秋葉 原がわたしに身近な存在になった。 加えて、夜型のわたしにとって、六時で大半の店が閉まっ てしまうのを常とした従来の秋葉原は、まだ半分距離があっ た。ところが、コンピュータの店が増えたいまでは、夜の一 ○時ぐらいまで開店しているところもあり、秋葉原に夜の時 間が付け加わった。これは、都市として一段成熟したことを 意味する。これと平行して、それまで少なかった喫茶店や食 べ物屋も出来、単に買い物をするだけでなくこの都市を使う ことが出来るようになった。 「秋葉原で会おうか」 電気に関心のない人には言えなかったせりふが、いまでは 言える。電子部品の買い物とは無関係に、ただ遊歩するため だけにこの街を訪れることができるのだ。こうなったら、秋 葉原とのつきあいのなかでわたしに残されているのは、ただ 一つ――そこに住むだけである。 東京人、1995年9月号、pp.57-59