英語圏の中国人に与える未曾有のパワー

「燃えよドラゴン」は、いまでは、カルト映画の一つに数えられ、ブルース・リーのファンクラブや書籍は相当数にのぼり、インターネットの専門サイトもある。この二十数年間に、何度かブームがあり、二世代にわたって語り継がれている。
この作品が日本で初めて封切られたのは、一九七三年一二月である。しかし、その前評判は、その後この作品が身にまとうカルト的な人気からは想像できないほどおとなしいものだった。
ところが、観客の反応は予想をはるかに越え、「エクソシスト」についで一九七四年度のビッグヒットとなった。そのため、この年には、柳の下のどじょうを追うかのように矢継ぎ早に「カンフー」ものが封切られ、しかも、そのタイトルにやたらと「ドラゴン」が使われたのだった(「片腕ドラゴン」、「帰ってきたドラゴン」、「地獄から来た女ドラゴン」等々)。
わたしはというと、わたしはこの時点では「燃えよドラゴン」を見ていない。劇場での評判は知っていたが、逆に、そうした一般的反響に背を向けたのである。「おもしろいらしいが、あれは映画としてのおもしろさじゃない・・・」とかなんとか勝手な理屈をつけたのだ。つまり、ブルース・リーという「怪優」でもっている三流映画というのが、当時のわたしの映画仲間(愚かにも!)のコンセンサスだった。
他方また、この年には、いままでの流れとはちがう映画に興味をもつ余裕をあたえないほど、まえまえからの流れに直接つながる重要作品が続々と封切られた。わたしは、ペキンパーに入れ込んでいたが、この年、「ゲッタウェイ」が公開された。「ボギー!俺も男だ」ではウディ・アレンという「特異な」俳優兼監督の存在を知った。「激突!」では、全くその将来の姿を予見することはできなかったが、とにかくスピルバーグの日本公開第一作であった。シュレシンジャーの「日曜は別れの時」は「真夜中のカーボーイ」ほどのインパクトは感じられなかったが、「ニューシネマ」の健在を確認できた。シャッツバーグの「スケアクロウ」、ベルトルッチの「ラストタンゴ・イン・パリ」も、この年に日本公開されている。
だが、そんなわたしの「教養主義的」な映画生活を打ち壊してくれたのは、ニューヨークだった。一九九六年の秋、前年以来病みつきになったニューヨークへ、今度は住みつくもりでやってきたのだったが、そこでわたしは、それまでのわたしのアメリカ映画体験を大幅に改める多くの出来事に遭遇した。ブルース・リーへの開眼も、そんななかで起こった。
あるある昼下がり、ヴィレッジからソーホーを抜けて、イーストサイドのデランシー・ストリートのあたりに足を向けたわたしは、とある安映画館のドアーを押した。「燃えよドラゴン」をやっていたからである。アメリカの映画館は、上映の途中で客を入れないのが普通だが、この安映画館は常時客を入れていた。驚いたことに、映写室に入ったとたん、客席からかん高い中国語が聞こえてきた。映画は、日本で上映されたのと同じ(はずの)英語版だが、若い観客の多くは中国系アメリカ人らしい。そして、ブルース・リーが登場すると、彼や彼女らの声が十倍に強まる。
概してアメリカの映画館――特に場末の――では、作中ドラマに対する観客の参加度は猛烈である。それを見ているだけでもおもしろいが、ときには、一斉に「殺せ、殺せ」(キル!・キル!)の大合唱がはじまって、恐ろしくなることもある。ここでも、似たような現象が見られたわけだ。
そんなわけで、その後、「燃えよドラゴン」を見るたびに、このときの光景が忘れられず、この映画をどうしても、アメリカに在住する中国人との関係で見てしまうのである。
香港でブルース・リーは、アメリカのテレビ映画「グリーン・ホーネット」が吹き替え放映されたことによって、知らぬ間にスターになり、やがて、「ドラゴン危機一発」(七一年)、「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」(七二年)で英雄的な存在になるが、ブルース・リーの映画は、とりわけアメリカやカナダなどの英語圏に移民した若者にとって特別の存在であった。
「燃えよドラゴン」は、特にそうした傾向が強く、ある意味で、この映画は、中国語圏の観客にとってよりも、英語圏に住む中国人にとっての方が、より強力な解放感をあたえるはずだ。そして、このことが、この映画を香港という舞台、英語という言語的条件、さらには格闘技(妻リンダによると、ブルース・リー自身は、彼の「格闘技」を「止拳道(ジィクワンダオ)」と呼んでいたという)を越えて、多様な民族や階級がひしめきあう社会を独力で生き抜こうとする者全般を力づけるのである。
「燃えよドラゴン」は、ある点で007シリーズを模倣している。ラロ・シフリンのテーマ音楽も、明らかにジョン・バリーのボンド・シリーズに似た音調をもつ。ハンが支配する要塞島は、スラッシュの要塞と何とよく似ていることか。
しかし、リーがボンドとちがうところは、彼は、闘争力の点では抜きんでているとしても、ボンドのようなエリートではなく、また、「自由主義圏」やNATOのために身体を張るのではなく、自分や妹や師匠のために闘うという点だ。
一九五八年、一八歳で単身アメリカに渡ったブルース・リーは、移民する青年が経験するように、多くのフリータ的な仕事につき、そのかたわらワシントン大学(シアトル)に通う。しかし、彼が、典型的な移民者とことなるのは、彼が専攻したのが哲学であったということである。それが、東洋哲学なのか、それとも西洋哲学なのははわからないが、当時のワシントン大学には、実存主義や現象学を教える教授がいたはずである。そうした「現代」哲学の素養は、「燃えよドラゴン」のなかでも、彼の台詞の端々に感じられるし、とくに少林寺拳法の若い後輩に向かって道を説く彼の言葉のなかに発見できる。
ところで、この映画のなかで、非常に抑えた形ではあるが、日本に対する批判が幾度か示されているのは、おもしろい。そして、その日本は、要塞島の独裁者ハンと密接な関係をもつものとして描かれている。ハンが主催したパーティに登場する奇妙な相撲パフォーマンスをやる力士とドンブリの飯をかき込む日本人風の男たち。ハンの徒弟たちが一斉に行う空手の練習は日本のラジオ体操のように一律である。
統合と一律を嫌い、独立と自律を求める思想は、ブルース・リーがアメリカで身につけたものかもしれない。しかし、そのアメリカは、大国としてのアメリカではなく、癖の強いさまざまな個人にそれぞれの生き方を許す部分をもつハイブリッドなアメリカである。
シアトルの丘の上の墓地にあるブルース・リーの墓石には、こんな文字が刻まれている。

以無限為有限
以無法為有法


(キネマ旬報 臨時増刊、1997年8月8日号、pp.104-105)